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和楽器豆知識

一絃琴

楽器


一絃琴(峯岸一水)

桐の一枚板にたった一本の絹糸を張り、蘆管(ロカン)と呼ばれる筒状の象牙製の爪を使用する。
左手の蘆管で、桐の表にある徽(キ)と呼ばれる12箇所の勘所を押さえ、右手の蘆管ではじく。使用できる音域はおよそ2オクターブと4度であるが、フレットがあるわけではないので、この範囲内であれば音は無限に作ることができる。もともと演奏者それぞれの声にあわせて調弦していたが、現在は(清虚洞一絃琴においては)おもに壱越(d)または断金(dis)をとる。
楽器自体には共鳴体はなく、箱型の琴台が共鳴体の役割を持つ。昔はひざの上に琴をのせて演奏していた。
絵の一絃琴は太?式一絃琴。これは清虚洞一絃琴流祖・徳弘太?(ヒロトクタイム)の改良したもので、一般の一絃琴演奏者はほとんど平行式という細く、くびれの二つあるものを使用している。
基本的には弾き歌いで古典では歌は和歌などが多い。筝曲や俗曲から一絃琴用に移したものを「外曲」というが、外曲には「みだれ」など器楽曲も含まれている。

楽譜

数字を使った、たて譜を使用する。清虚洞の譜は歌・勘所の他に拍子をあらわす黒点がある。

歴史

日本後期巻8に初めて「一絃ノ琴」というものが登場するが、これが現在の一絃琴と同じものかどうかわかっていないが、多分異なるものと考えられている。その起源は平安時代に遡って諸説あるが、いずれも伝説の域を出ず、実際のところわかっていない。
江戸時代中期に一絃琴中興の祖として、覚峰阿舎利という僧があらわれたのが、一絃琴の歴史のわかっている最初の部分である。中興の祖として、その前の歴史もあるものと思われる。
その後、高僧・貴族・武士・文人たちによって引き継がれ江戸時代後期には大変盛んになった。幕末の志士たちが一絃琴の稽古にことよせて、討幕の密議を交わしていたという話は有名である。
江戸後期の眞鍋豊平(1809〜1899)が多くの作曲を残したが、明治に入り衰退の一途を辿った。

清虚洞一絃琴

「清虚洞一絃琴」の流祖は徳弘太?(1849〜1924)。眞鍋豊平の高弟で土佐藩士であった太?は、会津戦役に軍楽隊として従軍し、明治政府のもとでは近畿地方司法官となり、大津事件などを経て、悟るところあり退官した。
京都に隠棲し、学問・風流に親しみ、常に一絃琴を携えたという。一時期は、俗界を離れ臨済宗の中興の祖、「白幽子」巌居跡の洞窟にこもり、気を学び「太?式一絃琴」と大曲「泊仙操」を完成させた。中国の儒教・神仙思想の影響があると言われている。
また、一絃琴の絶滅をおそれ、伝来の楽譜を整理、内務省の版権を得て、「清虚洞一絃琴譜」を出版した。

「泊仙操」(ハクセンソウ)「泊」は白川、「仙」は仙人、「操」は琴の曲の意。

徳弘太?が白幽子巌居跡の洞窟にこもり「気」を学び、修行していた京都の北白川瓜生山の一年の自然を曲にうつしたもの。
春夏秋冬それぞれに鳥の声、水の流れ、虫の声、枯れ葉の舞い散る様を手事で描写し、ひいては、四季は人の一生であるとうたっている。全曲は25分。

 われは誰が子なるや知らず 白川の奥のいはやを假の宿
 すめる心は孫登が たぐいならねど
 ひとつの緒の 琴かきならすたのしさよ
 山中佳趣四時多 清韻伴絃何最好
 春は梢にももどりのさへづる声ものどかなり
 夏は草間に真清水の いわせにかかる音すずし
 秋は草葉の夕露にあはれを添ふる虫の声
 冬は時雨の降るなべに 落つる木の葉の音わびし
 いつか冬くれ また春にとしたちかへり たちかへり
 渓壑の興かぎり知られず


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